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大河ドラマ「北条時宗」

番組データ

放送日:2001年1月7日〜12月9日 放送局:NHK総合 20:00〜20:45 原作:高橋克彦「時宗」 脚本:井上由美子 演出:吉村芳之・吉川邦夫・渡邊良雄・城谷厚司・吉田浩樹・真鍋斎 ほか

やくどころ:北条(名越)教時

北条家の歴史の中で発見された説明はこんなやつでした。

1272(文永9)年二月騒動。
鎌倉で執権北条時宗の舅、安達泰盛により、名越時章・教時兄弟が暗殺される

それに家系図によりますとお兄ちゃんの「時章(白竜さんがやる役」は、その後何代か血が途絶えることなく続くのですが、教時は子供もなかったようです。
どういう人生だったのかしらね。。
掲示板に書かれたあねうえ。の書込を以下に転載させていただきます。どうもありがとう>あねうえ。

◆教時の人生◆

歴史の記録に従えば時輔と結んで謀反を起こそうとした首謀者は名越の弟、教時の方だという事になっています。兄時章は殺害の後、無実が証明され、子供の公時に没収所領の一部が返還されたわけですが結果的には時章は、殺され損のうえ、取り上げられた所領(筑後・肥後・大隈)が時宗配下の御家人に分配されたところから、北条執権得宗家を守るため、そして蒙古襲来に備えて所領を手に入れるため、最初から兄弟一緒に殺害することが目的であったとも思われます。もちろん、そんな記録は残っていませんが。史実には寂しい人生だったのかなどという感傷的な想像は不要ですが推測するならば、無念だったのは兄の方でしょうか。もちろん謀反人として処罰された教時の係累も殺されたはずですので子供がいても 子孫は残っていないでしょう。。

◆歴史の中の教時◆

年号だけちょっと参考に書いてみます。 二月騒動は1272(文永9)年ですが、その4年前、1268(文永5)年に高麗からモンゴル皇帝フビライの国書を持った使者が大宰府に着きます。それは丁度時宗が執権になった年です。 その後も「通好」という要求(実際は朝貢する属国化)をしてくる元の国書に対して鎌倉幕府は拒否する姿勢をとります。 1271(文永8)年には高麗で内乱がおこり、翌年、二月騒動は蒙古襲来の直前の不穏な空気の中で起きています。 北条得宗家の兄弟による内部争いに決着をつけないと国難を乗り切れない時期だったわけですが。。(この頃日蓮が佐渡に流されています) 五度目の使者が大宰府から帰った後遠征が決定され、1274年(文永11)年元・高麗軍が対馬・壱岐から博多湾へ来襲=文永の役、その後九州警護を固めて再度闘う準備をした幕府は1279(弘安2)年、幕府は元の使者を博多で斬り捨て、1281(弘安4)年元は高麗・元の東路軍4万、南宋の江南軍10万、軍船4000以上で再度日本へ遠征=弘安の役、1284(弘安7)年時宗死去、という流れです。 年表だけ見てると、時宗ってモンゴルと闘うためだけに執権として日本史の舞台の登場して、終わったら消えていった人なのですよね。

さて、教時の企みは如何に??

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